植田幸嗣氏( 公益財団法人がん研究会ゲノムセンター がんオーダーメイド医療開発プロジェクト・プロジェクトリーダー)
植田氏は、質量分析を武器に、早期診断用や予後予測用、薬効予測用のマーカーや、治療標的を探索してきました。日常的に数百人規模のサンプルを解析していると話します。「2011年頃からサーモフィッシャーのオービトラップ質量分析計(ThermoScientific™ LTQ Orbitrap Velos™ETD)を使い始めました。Q-TOF型よりも優れた分解能とずば抜けた安定性が魅力ですね。特に血清や血漿など、複雑な生体サンプルを200-300人分連続分析しても感度や分解能が落ちないのは素晴らしいと思います。臨床プロテオミクスでは多検体分析ができることが一番重要です。Q-TOF型でも高感度な質量分析装置はありますが、検出器が汚れて感度、特に分解能がすぐに低下してくるのが問題」とその特徴を語ります。
植田氏が、がんのマーカー探しの材料として注目するのは、エクソソーム。血中を循環するエクソソームのタンパク質プロファイルは、オリジナルのがん細胞と非常に良く似ており、がんに特異的なタンパク質を検出しやすいとのこと。「ただし血液には、抗体やアルブミンなど、数十mg/mLオーダーの多量の夾雑タンパク質が含まれています。マーカー候補となるエクソソーム中の微量なタンパク質(ng/mL-pg/mL)を同定するのは至難の業。それを乗り越えるため、サイズや膜表面の生化学的な性質を利用したエクソソーム精製カラムを開発しました」と語ります。すでに4,000種程度のタンパク質を同定したそうです。患者さんへの負担が少ない採血で行う「リキッドバイオプシー」は、各分野で注目されていますが、タンパク質解析の利点は早期診断が可能な点だと植田氏は答えます。
一方、ゲノミクスの大家であり、恩師でもある中村祐輔氏と共同で進めるのが、がんペプチドワクチンの開発。中村氏より次世代シーケンサでがん細胞から洗い出した遺伝子変異リストを受けとり、植田氏は、同一患者組織からHLA抗原を精製し、質量分析にかけます。変異リストと突き合わせ、どの変異領域が1細胞あたり何コピー、細胞表面に抗原として提示されているか確認します。生体内で実際に免疫細胞の標的となる腫瘍特異的なペプチド(neoantigen)でワクチンを作れば、効果の高いがんの個別化医療が期待できます。ゲノミクスとプロテオミクスを組み合わせることで生まれた最先端のトランスオミクスアプローチです。
植田氏が開発した糖鎖質量分析技術Erexim法はLSIメディエンス社で実用化され、抗体医薬品をはじめとしたバイオ医薬品の品質管理、開発支援受託事業として広く使用されています。「製薬業界では糖鎖エンジニアリングが特にホットな分野。抗体医薬品などは、その糖鎖構造で薬効や安全性が大きく変化します。私達は定量質量分析技術を応用してタンパク質医薬品上糖鎖の精密な定量プロファイルを提供しています。例えば、目的の糖鎖構造、夾雑物、ヒト型以外の糖鎖の存在比率などです。副作用への影響も注目されており、医薬品はバイオシミラー(後発医薬品)のシェア拡大も相まって品質管理の面でも競う時代ですね」とトレンドを語ります。
プロテオミクスを含むさまざまなアプローチにより、がんのマーカーが続々と報告されています。しかしがんはヘテロな細胞集団であるうえ、患者ごとにタイプが異なります。「今は一度の測定で1つの項目を測定するシングルマーカーしか承認されていませんが、今後は一度に多項目を同時定量するマルチマーカー検査の時代がくると想定しています。その時は質量分析計の出番」と、がんの個別化医療の将来像を描きます。「基礎研究でも臨床研究でも、幅広い成果が見込めるので、需要は増していくはず。ソフトウェアも充実し、昔よりユーザーフレンドリー。今後必要なのは、インフォマティクスでしょうか。質量分析データの解析は至難の業です。1つのタンパク質が数十~何百ものペプチドフラグメントに分かれ、全体で何百万のシグナルがひしめく世界。今は、質量分析計が産み出す膨大なデータのうち、昔ながらのデータベース検索で同定できるわずかな情報しか活かせていないことを考えると、まだまだ宝の山ですね」と語る植田氏。機器をとりまく人材の力を強化して、質量分析からプロテオミクスの可能性を広げ続けます。
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